私は先月まで東京の往復生活をしていたので、引っ越してからも住んでいる街に
馴染もうとせず、休みの日はただただ家で引きこもっておりました。
今月からはいよいよ本腰を据えようと、街の探検を始めてみました。
車も4年ぶりに運転して、行動範囲も拡大中。
何があるのか、何が出来るのか、妄想が広がってきます。
そんな時、あの、ダライ・ラマ氏が静岡にやって来るということを聞きました。見に行かなきゃあ。
数年前、北国に赴任していた時、道を歩いていると、人がなにやら集まっていて、しばらくすると
黒い車に乗った天皇と美智子様がスピードを落として窓を開けて、手を振って通り過ぎました。
おぉぉ。
それまでは、
テレビの中でしか見たことのない人。
歴史上の人物。
国の象徴。
よく空港や街で芸能人を見かけたりすると、やっぱり一般人とは違うんだわ、という空気が
漂っている気がするのです。気のせいかもしれないけど。
だけど、一瞬だけ見れたかのお二人は、なんだか、これまでに感じたことのない『大物』感が。
あぁ、本当に、ただ者ではない。
ただ、天皇と美智子様が過ぎ去った後、なーんか、あれー、なんかこの感じ、知ってる気が
するなー。なんだろうなー。 と、モヤモヤしていたのですが。
あっ
ミッキーだ!
あくまで個人的な見解です。祖母に言ったら「不敬罪!」と叱られてしまうことでしょう。
でも、私の感じたそのオーラなのかなんなのか分からないけどその雰囲気、それは
あの、ネズミーランドに住んでいるミッキー氏のものと、酷似していた気がするのです。
それを夫に話すと夫も、「確かに皇居なんて、ディズニーランドみたいなもん(はい色々失礼!)だし、共通点はあるのかもね」とまんざらでもなさそうな感じで。ミッキー
世界的なスターだし、やっぱり、歴史に残るような存在というのは、特別なのかもしれない。
で、ダライ・ラマ氏です。
歴史上の人を見たい、とミーハー心でラマ氏の話を聞きに行きたいと思ってしまった私です。
オレンジというか黄色というか、素敵な色の僧衣に身を包んで、ピッカーと光って見えました。
まぁ主観なので。知り合いは「普通だった」と言ってました。衣装(!)の効果もあるのかなぁ。
どだい失礼な発言が続いて、関係者の方々すみません。
私にとって宗教は日常に根付いているものではなく、海外の方に宗教は何か聞かれ、ハッとしたものです。「 ・・・・仏教?」と、クエスチョンマークをつけながら答えると、相手の答えは
輪廻転生ってクールだよね!というものでした。 ハハハ、輪廻転生、、クールなんかぁ。
あとは毎朝神棚に向かって毎日手を合わせる、というもの。 神道だしさっ。
(夫によると海外の人に宗教を聞かれた時は、“ZEN(禅)”と答えるのが正解だそうです^^;なんじゃそりゃ)
でも、祈りの場というものは、こよなく好きです。
横浜にいた時は鎌倉のお寺を巡るのが好きでしたし、東京もお寺や神社があるとつい足をとめて
入ったり。海外旅行でも教会とかあるとフラリと入って深呼吸をすると、なんか、異国にいるのに、
とても落ち着くんですよね。人が祈る気持ちというのは、世界中どこへ行っても同じなんだなーと。
(実家は熱心でない仏教と神道でしたが、幼稚園と高校がカトリック系だったので、「神様はいる」「神様は見ている」と聞かされていたので、今でも“誰かに見られている”感を拭えない私です。 ちなみに、人間は自分の意志で心臓を動かすことは出来ないので、何か、見えない大きな力はあると思ってます。それが、神様という解釈で良いのか分かりませんが。)
今回ダライ・ラマ氏も参加したイベントは、6つの宗教がそれぞれ富士山に向かって祈りを捧げる、
というものでした。静岡だからね。富士山の見える丘で執り行われました。
神道、キリスト教、イスラム教、修験道、チベット仏教、日本仏教、の6つ。
コンセプトは素晴らしかったけど、写真撮影可、ということで、参列者のみんなが携帯やアイパッドをかざしながらの参拝だったので、なんだか神妙な雰囲気はほぼありませんでした。
あ、私もパシャパシャやってました。 ミーハーな国民性なのです。ごめんね聖職者のみなさん。
それぞれの宗教が、神に奉仕するための様々な踊りや歌を持っていて、それを披露(奉仕?富士山に向けて)してくれました。現在は歌や踊りといったものは芸術的、文化的なくくりのものになってはいるけど、人がそもそも踊りや歌を発展させたのは、神に捧げるためだった、というのをどこかで聞いた気がするので、重要な部分なのだと思います。
以前、どこかのライブハウスでお坊さんがお経のライブをしているというのを聞いて観に行きたいと
思ったのですが、夫が「不謹慎だ」といって怒ってた気がするのですが、私は良いと思うんです。
色々な祈りの形があって。お坊さん方は毎日発声練習してるから声も良いし、お経はそもそも
耳に心地よいものだし、そうやって宗教が日常に入り込んでいくのは、とても良いことだと思う。
もっと身近に感じた方が楽しいのじゃないかなーと。 ゴスペルとかみたいにさ。
で、話は戻りますが、ダライ・ラマ氏の講話がその後に続きました。
内容は結構長くて忘れてしまいましたが(あほなので)、印象に残っているのは、
違う宗教の間で様々な闘争があるけど、信仰する理由というものはほぼ共通していて、みんな、
愛と慈悲と忍耐を学ぶためにしていることである、といったようなことでした。
有難いお話でした。 なんせ声が、良かった^^。
宗教は違っても、学ぶことは同じ。 私もそう思う。
大して宗教に関心もなく、戦争の無い平和な国で暮らしている私が言ってもなんの説得力も
ないけど。 愛も慈悲も忍耐も大して持ってないわー、、そっかー。 先は長いな。
その後、参列者もダライ・ラマ氏も聖職者のみなさんも一緒に祈りの時間が設けられました。
祈り、かぁ。
私の祈りたいことって、なんだろうな。
痩せたい?妊娠したい? それって、願望か^^;(特にひとつ目)。
神様に伝えたいことではないよね。。。
・・世界平和、というのはもちろんだけど、壮大過ぎるかな。
ふと心に浮かんだのは、先日、妊娠後期で死産されてしまった、大好きなブロガーさんでした。
交流はないので、私のことは知らないと思いますが、私は好きで読ませてもらってます。
文章から、人となりが伝わってきて、大好きなブログのひとつです。
それは先週に突然起こり、あまりにショックで言葉を失っておりました。
自分が流産した時は、人を慰められるような言葉をかけられるような人になりたい、だなんて
大口たたいていたくせに、いざ直面すると、もう、何も言えない。 ただただ呆然としてました。
どうしてこんなことが? 神様なんて、いないのかなと。(一応、神様はいると思ってます、、)
(神様は)本当にびっくりするほどひどいことをすると、妹が生後4ヶ月で亡くなった時に思いました。
人が亡くなるのは仕方のないことだけど、小さくて可愛い赤ちゃんを奪わなくても、良いのに。
心臓を握り潰されるような辛い出来事は、ある。 でも、生きていかなきゃいけない。
何も出来ないけど、祈ることなら、出来るのかな、
どうか、あの人の心が癒やされますように。
どうか、前を向ける日が近い将来に来ますように。

























